あと、「もともと国民なんてものは、どんな政治にだって、どんな宗教にだって、いくらでもうまく適応させることができる。もちろん、論証によってなんかじゃない、あくまでも状況っていう強制力によってだがね。」という部分は単純にそのとおりだなと思った。
7.7.2023 10:33...途中で、老人が青年に、心は君の思惑とは無関係に勝手に動いてしまうものなんだ、というようなことを言うわけだけど、この場合の「君」は何を指しているんだろうか。
7.7.2023 10:31...最初は、自由意志の否定という論点と人間は利己的存在に過ぎないという論点の繋がりがよくわからなかったんだけど、考えてみるとこういうことだと思うんだよなあ。仮に書いてあるとおりに受け取ると、人間に自由意志は存在せず、人間は機械と同じと言う一方で、人間は利己心のみによって駆動しているとも言っていて、でもこれは矛盾しているように思える。機械が利己的であるだなんて言う人はいないと思うし、人間即機械なんだとしたら、それが利己的であるとかどうとかはもはや関係ない、ただそうであるように動作するだけだ。
7.7.2023 10:02...しかし、現実の道徳を考えてみるに、採用されているのはむしろ前者であるように思える。故に「偽善」が問題になる。「やらない善よりやる偽善」と言うが、「やらない善」が可能であるということのうちに、超越的な動機の実在性が暗に前提されている?
7.7.2023 09:49...超越的実在論は経験的観念論に陥り、ただ超越論的観念論を採用することによってのみ経験的実在論を導くことができると言う、カントが語ったあの交差配列がここにも見られる!
7.7.2023 09:42...人間の行動は超越論的に見て全て利己的であるからこそ、個々の経験について、その行動原理がもっぱら自己のことのみを考えた利己的なものであるとか、逆に他者の利益も考えた利他的なものであるとかと言うことに意味を与えられる。逆に、人間の行動の背後にはその人だけにわかる動機があって、その動機が利己的であるか利他的であるかによって行為が利己的か利他的かが決まるのだ、と言う超越的実在論のような立場を考えてみる。その枠組みのもとでは、個々の利他的行動について、それは本当は利己的な動機によって行なわれているんじゃないか、といつまでも追求できてしまうことになる。つまり、個々の行為が利己的であるか、利他的であるかをもはや判断しようがない。
7.7.2023 09:39...AがBに益する行動Xをとったのはなぜかと考えたときに、「XはBのためになるから」では完全な説明になっていない。なぜBのためになるようなことをAはするのかと問えてしまうから。つまり、究極的には、それがAのためになるから、というところまで行き着かないとAがXをした理由の説明にはならないということ。その意味で、人間の行動は全て究極的には利己的なものである、と言わざるを得ない。これを超越論的利己主義と呼ぶことができると思う。
7.7.2023 09:30...マーク・トウェイン『人間とは何か』岩波
#読書
プラトンを思わせる対話篇の本。主だった論点は次の5つにまとめられる。
1. 自由意志と決定論について
2. 人間の利己性について
3. 人の人格を決める要因について
4. メタ倫理学で言うところの外在主義と内在主義について
5. 理性と本能、人間と動物の境界について
私の興味を最も惹いたのは2で、トウェインはこれを事実の問題として提起しているようにも読めるが、私としてはこれはむしろ権利の問題に近いんじゃないかと思った。つまり、人間は利己的な存在である、というよりもむしろ、人間の行動一般を説明する上で究極的にはその動機を利己的とせざるを得ない、ということ。
7.7.2023 09:24マーク・トウェイン『人間とは何か』岩波#読書...